【啐啄同時(そったくどうじ)】「実践」のない「学び」に陥るな
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「学び」という名の迷宮 ~なぜ私たちは動けないのか~
私たちは、いつからこれほどまでに「学ぶ」こと自体を目的化してしまったのでしょうか。
学校教育に始まり、社会人になってからの研修、話題のビジネス書の読破、さらには高額な自己啓発セミナーへの参加。
経営者であれば、常に最新のトレンドやフレームワークを追いかけなければならないという、強迫観念に近い使命感を持っている方も少なくないでしょう。
もちろん、学ぶことは尊い。
知識は武器になります。
しかし、ここで立ち止まって自問自答していただきたいのです。
「その学びは、一体何のためにあるのですか?」
もし、その答えが「いつか役立てるため」「不安を打ち消すため」「完璧な知識を得てから行動するため」であるならば、
厳しい言い方をすれば、その学びは「実践しないことへの免罪符」になってしまっているかもしれません。
禅の世界では、理屈ばかりをこねて実践が伴わないことを嫌います。
いくら立派な経典を暗記し、悟りの理論を語ったところで、実際に座らなければ(座禅)、それはただの「文字の遊び」に過ぎないからです。
「頭でっかち」だった20代~目的なき学びの虚しさ~
かくいう私自身も、かつては「学び」を目的化してしまっていた一人でした。
20代の頃の私は、とにかく手当たり次第に本を読み漁りました。
ビジネスに関すること、歴史、哲学、政治……。多岐にわたるジャンルの知識を頭に詰め込むことで、何者かになれるような気がしていたのです。
机の上には常に新しい本が積まれ、知的な刺激を受けることに満足感を覚えていました。
当時の私は典型的な「頭でっかち」でした。
次から次へと知識を吸収するものの、それを自分で実行に移すこともなければ、自分の言葉として発信することもない。
ただ情報を右から左へ受け流し、脳内に蓄積するだけ。
そこには、明確な「目的」が欠落していたのです。
「自分は何をどう変えていきたいのか?」
「何を実現するために、この言葉を読んでいるのか?」
そこに「意志」がなければ、学びはただの暇つぶし、あるいは現実逃避に過ぎません。
学んだ意義を発揮できない状態、つまり「宝の持ち腐れ」を、私は長く続けてしまっていたのです。
歴史が教える「啐啄同時」の真意:死に物狂いの意志があるか
ここで、今回のキーワードである「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉のルーツに触れておきましょう。
この言葉は、禅の代表的な公案集(問答集)である『碧巌録(へきがんろく)』に見られる、唐代の禅僧・鏡清(きょうせい)禅師と弟子の鋭いやり取りに由来します。
雛が卵から孵る際、内側から殻を突く音を「啐(そつ)」、親鳥が外から殻を突き破る助けを「啄(たく)」と言います。
ある弟子が「先生、私が中から突くので、どうか外から突いて助けてください」と請いました。
すると禅師はこう突き放します。
「そんなことをして、お前は本当に一人前の命として生きられるのか?」
禅師が問いかけたのは、「外からの助け(啄)」を期待する前に、お前自身に「何が何でもこの殻を破って外に出るのだ」という死に物狂いの主体性(啐)があるのか、という点です。
経営においても、これと同じことが言えます。
「いいチャンス(啄)が来たら動こう」
「誰かが導いてくれたら実践しよう」
そう考えているうちは、殻は破れません。
あなたが内側から、壊れるほどの勢いで殻を叩き続けるからこそ、不思議なことに外側からも「啄」という名のチャンスや助力が訪れ、新しい世界が開けるのです。
意志が生まれたとき、世界は解像度を変える
私にこの「啐」の瞬間が訪れたのは、会社である訴訟対応の主管部署を担当したときでした。
そこで直面した訴訟対応の現実、そして弁護士の仕事のあり方に対して、私は猛烈な疑問と違和感を抱きました。
「これはおかしいのではないか」「もっとこうあるべきではないか」。
その瞬間、私の中に明確な「目標」が生まれました。
すると、どうでしょう。
それまで漫然と眺めていた情報の海が、急に鮮やかな色彩を帯びて見えてきたのです。
目的が定まると、意識はそこに向かって一気に集中し、絞り込まれます。
いままで目に留まらなかった情報が、磁石に吸い寄せられるように飛び込んでくる。
解決のためのアイデアが泉のように湧き出てくる。
これこそが「啐」の状態です。
あなたが内側から必死に殻を叩き始めたとき、世界(親鳥の啄)もまた、あなたに必要な情報やチャンスという形で殻を突き返してくれるのです。
かつて「頭でっかち」に学んでいた膨大な知識も、この「意志」という軸が通った瞬間に、ようやく生きた武器として繋がり始めました。
実践こそが「最大の学び」であるという真実
「もう少し準備ができてから」
「もっと完璧に知識を得てから」
そう言って実践を先延ばしにするのは、卵の中で「もっと本を読んでから外に出よう」と言っている雛と同じです。
しかし、実践を伴わない学びは、本当の意味で役に立つことはありません。
なぜなら、世の中にある知識やメソッドには必ず前提条件があるからです。
書かれた時代、書いた人の置かれた状況、対象となった市場環境。
それらはすべて、今、あなたが直面しているリアルな現場とは異なります。
だからこそ、学んだことをそのままコピーして貼り付けても、うまくいくはずがないのです。
しかし、ここで「うまくいかない」と嘆く必要はありません。
その「うまくいかなさ」を自分の手で微調整し、あなたの状況に合わせて調整していくプロセスこそが、世界で唯一の「あなただけの知恵」になるのです。
実際にバットを振ってみて、初めてボールの速さがわかる。
実際に訴訟の現場に立ち、初めて法律の生きた運用がわかる。
実際に事業を興し、初めて「顧客」という存在の重みがわかる。
実践し、壁にぶつかり、そこで初めて学びは「自分事」になります。
「いつやるのか? 今でしょ」という有名な言葉は、単なるポジティブな掛け声ではありません。
それは、こうした「実践による自己修正」を始めるための、唯一無二のタイミングを指している、と私には思えるのです。
いつやるのか? その答えは内側にある
「脚下照顧」で自分の足元にある強みを自覚したならば、次は「啐啄同時」の覚悟を決める番です。
これまで蓄えてきた膨大な「学び」を、頭の中に閉じ込めておくのはもう終わりにしましょう。
あなたが勇気を持って「これがやりたい」「ここを変えたい」という意志で内側から殻をコツコツと叩けば、必ず時代という親鳥が、あなたの手助けをしてくれます。
目標が定まれば、世界の見え方が変わります。
これまで見落としていたヒントが、あなたの目の前に溢れていることに気づくはずです。
「いつやるのか?」 自分自身のなかで、その問いが浮かんだ瞬間。
それは、あなたの魂が「実践」という広い世界を求めて殻を叩いている音です。
その直感を信じ、今、その殻を突き破ってください。
突き破った先にあるのは、教科書には決して書かれていない、あなただけが創り出す「生きた真実」の世界なのです。
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