【脚下照顧(きゃっかしょうこ)】「当たり前」に隠れた自社の核心を照らし出す

禅寺の玄関の木札が問いかけるもの:外を見る前に、己を視よ

禅寺の門をくぐり、玄関や僧堂の入り口に目を向けると、墨書きされた木札に書かれているのをよく見かけます。

「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」

私は、以前はこれを「脱いだ履物を揃えなさい」という、意味だと受け取っていました。
もちろん、それも間違いではないのでしょう。

しかし、この言葉にはもっと違う意味があります。
とくに経営に携わる方の立場からすると、深く、鋭い意味があります。

「脚下」とは自分の足元、つまり自分が今立っている場所そのもの。
「照顧」とは、ただ見るのではなく、光を当てて隅々まで顧みること。

この言葉の本質は、
「他人の欠点や、外部環境の不備を嘆くくらいならば、まずは自分自身の足元を、血が滲むほどに見つめ直せ」
という、徹底した自己反省と現状肯定の要求にあります。

私たちは、行き詰まったときほど、視線を「遠く」へ飛ばしてしまいます。

「社会のトレンドはどこにあるのか」
「競合他社はどんな取り組みを始めたのか」
「最新のAIを導入すれば、この停滞を打破できるのではないか」

しかし、そうして遠くの「青い鳥」を追い求めている間、私たちの足下は暗がりに取り残されています。

実は、私たちを救う唯一の武器は、外から買ってくるものではなく、すでにあなたの足下に転がっているのです。

自身のなかの堆積層:強みは過去の経緯に埋まっている

経営における「強み」とは、一体どこからやってくるのでしょうか。
世の中の成功者が語るビジネス書では、それを「戦略的な選択の結果」として語りたがります。
しかし、現実はもっと泥臭く、もっと不器用なもののはずです。

自社や自分自身の「真の強み」は、狙って手に入れたものであることは多くありません。

むしろ、
「そうせざるを得なかった状況」「特異なまでのこだわり」
が長い時間をかけて積み重なり、化石化したものであることがほとんどです。

私自身のキャリアを振り返ってみます。
かつて電力会社で働いていた頃、私の日常は「業務フロー」や「業務取扱い」という、緻密で気の遠くなるような文書作成に埋め尽くされていました。
電力という巨大インフラを預かる組織において、たった一文字の解釈の違いが、お客様や現場の社員を迷わせてしまう。
その「絶対に間違えられない」という切実な重圧。
そのなかで、精緻な論理構造と、誰が読んでも迷わない言葉の定義を「当たり前」として身に着けていきました。

当時は、それが自分の「強み」だとは一ミリも思っていませんでした。

むしろ、社内のもっと華やかな仕事(燃料調達業務や原子力関係の業務など)に憧れを抱き、自分の手元にある泥臭い実務を「誰にでもできる、当たり前の仕事」だと感じていました。

しかし、この「当たり前」こそが罠なのです。

その環境に長く身を置き、呼吸をするように当たり前にこなしていることは、他者から見れば「異常なまでの徹底」であり「驚異的な特殊能力」に見えることが多々あります。
混沌とした状況を整理し、抽象的な構想を、理解可能な具体的な実行計画へと落とし込む。
私が今、コンサルタントとして経営者に提供しているこの価値は、あの電力会社時代の「そうせざるを得なかった」足下の格闘がなければ、存在しなかったでしょう。

あなた自身、あなたの会社の足下にも、必ずこうした「過去の経緯に根差す堆積層」が眠っています。

経営を維持するために必死で磨き上げたコスト感覚。
理不尽な顧客に対応し続けたことで身についてしまった、異常に高いカスタマイズ能力。
創業者から受け継いだ、過剰とも思える「品質への固執」。

これらは、教科書的な「戦略」として身につけたものではないからこそ、他社が容易に真似できないものなのです。

潜在的な強みの源泉:他人の苦痛、自分の快楽

もう一つ、脚下を照らす際に注目すべき指標があります。

それは、「他の人は嫌がるのに、自分だけはどれだけやっても苦にならないこと」です。

これは「潜在的な強み」の最も純粋な形です。

例えば、私自身も子供の頃、高校野球のデータに異様な執着を持っていました。
どこの県で、どの高校が何回優勝し、その時のエースは誰だった。
それを調べ、自分なりに分析することに没頭できました。

他人から見れば「そんな細かいことを調べるのは時間の無駄だ」「何の役に立つんだ」と思われるようなことでも、私にとっては至福の時間でした。

ここに、戦略の本質が隠れていると思います。

多くの人は、「将来役に立ちそうだから」という理由で、苦手な分野を克服しようと努力します。
しかし、努力は「夢中」には勝てません。

どれだけ時間をかけても疲れない、どれだけ深く掘り下げても飽きない。
その「偏愛」の対象が、自身の中に、あるいは自社の文化の中に必ず存在します。

これこそが、禅で言うところの「本分(ほんぶん)」です。

「自分はこういうことに興味がある」
「これをやっているときは、なぜかうまくいく」

そういった個人的な、あるいは組織的な「特異点」を、「仕事とは関係ない」「ただの趣味だ」と切り捨ててはいけません。

これまでにも述べてきたように、「自分はこういう人間だ」という過去の定義(自画像)を一度捨て去る(本来無一物)ことができれば、これまで「価値がない」と思い込んでいた自分の足下の欠片が、実は宝石であったことに気づくはずです。

潜在能力が「表面化」する瞬間:内なる必然と外なる需要の交差点

脚下を照らして見つけた「潜在的な強み」は、いつ、どのようにして「価値」へと昇華するのでしょうか。

それは、あなたの「特異な蓄積」が、社会や顧客の「切実な痛み」と重なった瞬間です。

私にとっての「整理・構造化能力」が、中小企業が抱える経営課題と出会ったとき、それは単なる「事務処理能力」から「変革のための武器」へと姿を変えました。
高校野球のデータ狂が、ビッグデータ解析の時代に出会っていれば、それはチーム内の「データ解析担当」として開花していたでしょう。

いちばん幸せな、そして最強の経営状態とは、この「足下の強み」を無理に加工することなく、そのまま市場のニーズにぶつけられる状態です。

新しい自分になろうとする必要はありません。
むしろ、「自分であることを極める」こと。

「自分にはこれしかない」「これだけは誰にも負けないほどやってきた」という足元の一点を深く掘り下げる。
そして、いつしか地下水脈にたどり着き、外の世界へと溢れ出ていくのです。

「一点突破」とは、どこか遠くにある壁を壊しに行くことではありません。
自分自身の足元に杭を打ち、それをどこまでも深く突き刺していくプロセスのことなのです。

青い鳥は、あなたの足下に転がっている

「脚下照顧」

この言葉は、私たちに「安易に外に救いを求めるな」と厳しく諭します。

市場が変化し、先行きが見えない不安に襲われると、私たちはつい「どこかに魔法の杖はないか」と外を探してしまいます。
しかし、どんなに優れた外部の知見や技術も、あなたの足下にある「土壌」と馴染まなければ、決して根を張ることはありません。

「青い鳥」を探して旅に出る前に、まずは自分の靴を見てください。
その靴がどれだけ汚れているか。その靴で、どんな道を歩んできたか。
あなたの足元には、これまでの苦労、失敗、異様なこだわり、そして「当たり前」だと思って見過ごしてきた膨大な経験の堆積があります。

  • かつての泥臭い実務に、今、光を当てたらどう見えるか?
  • 自分たちが「これくらい普通だ」と思っていることは、実は業界の常識を覆すことではないか?
  • 何があっても捨てられなかった「こだわり」が、顧客を救う鍵にならないか?

このように考えていくと、視界はクリアになります。

道が繋がっているかどうかも分からない不確かな未来に怯えるのではなく、自分の足下にある「確実につながっている一歩」を信じること。
その一歩こそが、誰にも真似できないあなただけの「独自の道」となり、やがて時代という追い風を味方につける源泉となります。

最強の武器は、すでにあなたの手の中に、そして足下にあるのです。